What's up?  2001年5月〜12月
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2001/05/04(金)

人類よ,

今日の NY は猛暑です。日中は30度を超す暑さ。
人民は苦しんでいる。私もまた、苦しいのだ。しかしがんばろう明日のために。
畑を耕し稲を刈り、村は総出でお祭り騒ぎ。 ~ 男達は狩りから戻ってきては酒ばかりくらって使いもんにならん。

いよいよ最終回。

村民はついに立ち上がった。うをーー。
閧の声が闘いの時を知らせる。この暑さじゃかなわねえ、え〜い、こおなったら
クーラーの出番だ!

.......こうして何年かが過ぎ、村には平和が訪れたのだった。



筆者あとがき。

プロットには苦労しました。作品の構成自体には問題ないのですが、
もっと一般受けするようなポピュラリティーのある作品にできたのでは、
と思っています。ありがとう。

2001/05/06()

タイトルとは何か

日記とは一体何か。なんなのか。それが問題であろう。この行、ずっと書いていくとどう言った現象が表れるや。ふーむ。今日も暑かったである。あーあーマイクのテスト 中。
これでどうかねルパン君。ふっふっふ。
いやー眠いね。

つまりこういうことか。いよいよ年貢の収め時。

一旦、登録だ。


な〜るほど。こういっちゃあなんだが、もっと UPLINKERS っぽい事を
書くべきなんだろうね。ふうー。

芸術とは何か。

それは難問だ。難問か?どおかな。....。
私は一体なにものか。
ああードアの外がうるさくて考えがまとまらない。パーティーでもやってんのか?

そこへ不審者の訪問...。ノックの音、こんこんこん。おや?
きつねかな?

2001/05/17(木)

遂にリニューアル完了!

みなみなさん。いよいよ我がホームページも新規オープンです!
たくさんの方の御来場をお待ちしています。

というわけで、昨日は血を少し抜かれ、ツベルクリン反応の注射を
打たれ、体重計に乗ったり聴診器をあてられたりと精神的な苦痛が
多かったので寝不足もあるのでちょっと横になってから、今後の事など
考えます。御静聴ありがとうございました、と。

2001/05/21(月)

ううう〜む。

ここに何を書こうか。二日酔いの頭では全てがこんぐりがえって
考えがまとまらん。

あそうだ、まずこのホームページを制作していただいた
mac の権威者、佐々木里恵女史に感謝せねばならぬであろう当然のごとく。

でそのりえさんのページである RIE'S APT の完全復活をとりあえず
祈ろうではないかね。(さんせー)

では今日はこれまで。みんな良い日となるように...。

2001/05/27()

湿気

湿気と音の関係ってこんなにも大きいか、というくらいある。
まず、弦楽器に限って言うなら湿度の高い日は演奏中にどんどんチューニングが
狂ってくる。木の楽器だから、大気中のあらゆる現象の中にさらされてその環境の
影響がもろに表れる。
湿度はその最たるもの。水分を含んで延び縮みする木の材質、そして弦。
俺は弦はガット弦をアルミで巻いたものを使っているので、これも影響を
ちょー受けやすい。
ガット弦は羊の腸を乾かしたものを使っているというのは、本当にほんとだろうか?
常識としては周知の事なんだろうが。

野外ステージ等、野外 LIVE もたいへんだ。バックステージでチューニングしても、 その30秒後にステージに上がってみるともう狂っていることもあった。

もう何年も前のこと、オルケスタ デラルスが NY 公演を PALLADIUM というホール
(クラブ)でやった時、ゲスト出演させてもらったのだが、会場は大入り超満員で
人の熱気がステージ上まで這い上がってきていた。
ステージ脇で出番を待っている間、当然チューニングは済ませてさあ出番、
ノラさんとげんくんに紹介されて、曲が始まる。
うわーすごい熱気ーとか思う間も無くソロを弾きはじめようと第一音目...。
思いも寄らぬすごい音に最初自分の音とは思えなかった。
モニターの故障かとも思ったくらい変な音は、自分の El.バイオリンである。
熱気のせいで半音強、ずれてしまっているではないですか。
まあ気がついてからは、これもまたおもしろいかなとも思ったのだが、
それもまたつらいものがあって、結局演奏しながらチューニングは元に戻す
という手段をとった。


先日、本当に久しぶりにアコースティックバイオリンを人前で弾く機会があった。
ちょっと湿度の高い日で、人の楽器を借りて弾いたのだが、なんだかその湿気が
いい具合に木に音に影響していたのか、気分よく演奏できた。

そういえば、自分の声がもともとちょっとハスキー気味なので雨の日とか声の出具合が
いいと少し気分もいいや。

2001/05/28(月)

今日の誓い。   一話完結

あーっ。もーーーっ。むおーーーーっ!! むおおお〜〜〜っ!!!

もお絶対絶対、ぜったい、ぜえったい!
コンピューター使う時は赤ワインなんて飲みませーん。
(たとえ飲んでもグラスは違うテーブルにしますから。今度から)

神様、仏様、キリスト様、ムハメッド様。あとほかみんな。



おおー。うおおおお......。その時、その地響きがごとく男どもの悲しみの叫びは
まるで祈りのようにも聞こえ、ウェストサイド中にとどろいたとさ。
この事件は「2001年ウェストサイドの雄叫び」として行く末まで語られる事と
なったんだね。(出典「NY 年代記」第十七章より)めでたしめでたし。



筆者あとがきーーーーー

まあこーゆー事もあるでしょう、といった言わば格言のようなニュアンスを感じ取って
いただければ、作者名利に尽きるといったところでしょうか。ではまた。



2001/06/03()

ジャコの思ひで、ぼろぼろ       

1988年、エディパルミエリのバンドに入って間も無い頃、ボンゴプレーヤーの
アンソニーカリージョ(Anthony Carrillo) が俺におもしろいテープがあるんだと
一本のライブテープのコピーをくれた。それは、エディとジャコパストリアスの共演テープだった。

その頃 VILLAGE GATE はまだ健在で、毎週月曜夜の Salsa Meets JAZZ というお決まりの
イベントを目当てに、それこそニューヨーク中のラテン (HISPANIC) が、まるで一週間をこの一日に
賭けたかのように集まってきていたものだ。
Salsa Meets JAZZ はサルサ系アーティスト/グループが、有名なジャズミュージシャンを
週替わりでゲストに呼び共演させる、という企画だった。ここには本当にありとあらゆる
ミュージシャンが集って、とんでもない様なコンビネーションで客をわかせては、LATIN JAZZ
あるいはヒスパニック達の懐 (文化?) の深さを感じさせ、それはまるで「音の実験室」の様だった。
Salsa が NEWYORK LATIN として始まったその時のパワーが、そのままそこに缶詰めになって
空気まで保存されてる、そんな感じだった。

アンソニーが渡してくれたテープは、その Salsa Meets JAZZ に出演したエディパルミエリが
ジャコパストリアスをゲストに迎えた1986年、ヴィレッジゲートでのライブのものだ。
その頃のジャコは、もう酒浸り、薬まみれ、といった印象が定着していて、あらゆるギグを
キャンセルしまくっていた彼の評判は「最低」だった。
俺は彼の姿を何度かヴィレッジで見た事があるが、全てへろんへろん状態で道端に倒れていたり
地下鉄の階段の途中にへたり込んで何かを喰っていたり、といったものだった。
一度だけ、彼がカシオの小さなキーボードを、やはり道端に空き缶を置いて弾いているのを
見たが、それは大袈裟にいえば圧巻だった。「なんであんなチープなキーボードからこんなすごい
音が、ハーモニーが出るんだ」少し離れて聞いていた俺は、涙が出そうだったのを覚えている。
でも、その時のジャコの目も、完璧「いっちまってた」。

前置きが長くなったが、そんな状態のジャコが Salsa Meets JAZZ に現れるわけがない、
テープの中の観客のリアクションはそんな具合のものばかり。
でも彼は現れる、観客の嘲笑の中!! 驚くなかれ、ブーイングの嵐!!
ステージ上のエディとジャコは、そんなことおかまいなし、といった感じで一生懸命いい演奏を
しようとしている。ジャコはエディのレパートリーについてくる。これぞ共演だあ。
しかし客の信用をすっかり無くしたジャコに向けられる罵声は、ここに書けるようなものではない。

晩年のジャコのすばらしい演奏、
しかしそれに容赦なくかぶさる信じられないような罵倒の数々.....。


彼が、道端でうつろな目をしてストリートをやっていた時、あるひとりの黒人が演奏中の彼の
前にやってきて「こんなことしてちゃいけない!」と何度も止めさせようとした。
彼が一体何者か知らない通行人達はいぶかし気にその黒人を眺め、ジャコはあからさまにいやな
顔をその男に向け、そしてその男は黙って首を横に振って行ってしまった。
俺はその光景を黙って後ろから見つめるだけだった。

ヴィレッジゲートでのエディとの共演の翌年1987年、ジャコは故郷マイアミへ戻り、
そこで不慮の事故にあい、35年の生涯が終わる。

多くの NY のミュージシャン達は、過去に消えていった多くの仲間達を「なぜあの時救えなかったのか」と今だに問う。

答えはそれぞれの胸の中にある。




2001/06/10()

ニッポン、ちゃちゃちゃ。

むうーーっ。残念無念ぢゃ....... 。コンフェデレーションズカップ決勝戦
New York では UNIVISION という41CH のスペイン語放送で、午後1時(6/11 0200 JST)
からの疑似ナマ放送。昼ごはんを急遽簡単なそばに変更し、午後の散歩兼、買い物を
延期して臨んだのに。------ 心臓によくないね。

まあしゃーないか。日本も強くなったもんだよ、昔に比べれば。
俺の子供の頃は、釜本とか奥寺がスターだったもんね、そういえば。
絶対に見れないものと思ってたから、ラッキーではあるし。まんぞく。



2001/06/12(火)

更新情報!

共演履歴に、エレキベース奏者の RICHARD BONA 氏を追加。 Valtinho の仕事で何度か一緒にやっていました。 Joe Zawinul のバンドはもうやっていないようです。



2001/06/14(木)

音の記憶/サウンドスケープ


イワユル "楽音" を主体とした「音楽」とは別に、音そのものに興味を
持ち始めたのはいつの頃からだったか。
もちろん、人は五感に刺激を受けて成長していくわけだから、これは特に俺に
限った性癖ではないのかも知れないが、たとえば様々な記憶を蘇らせたり、なんらかの精神状態
を創りあげるある種の「音」が、確実に存在する。
それは、その昔聞いた曲かもしれないし、CM ソングかもしれないし、あるいは
その類いの「音楽」ではない自然音/人工音かもしれない。
そして俺はそれに何故か異常なまでに執着する。

Brian Eno の有名な作品に Ambient 1 / Music for Airports (1979) がある。
延々とながれるピアノの音に、懐かしい響きを感じる。聞き始めるとやめられない。
最近、それが俺が子供の頃住んでいた団地の給水塔から、夕方になるとながれる時報の
物悲しいキンコンカンにどこか似ている事に気づいた。
やはり子供の頃、何かの用で隣街の団地へ行った時に、そこでながれる夕方の
時報の音があまりに物悲しくて、「こんな音、毎日聞かされたんじゃ死にたくなるよな」
なんて思ったことを思い出した。
夕陽に紅く染められた人工的な団地の肌、時を溶かして沈澱していく物悲しい鐘の音たち.....。
そういえば、船が出港する時に、潮で錆びた安物のスピーカーから雑音まじりでながれてくる
「螢の光」もそのたぐいの音として絶品だ。

Eno の音作りに対するコンセプトは、おそらく彼がキャリアを音楽家としてではなく、
造型美術アーティストとして始めた動機に根幹がある、という気がする。
音楽を「楽音」という限られた素材から作り上げるのではなく、初めに「どんな音が聞こえる
のか、聞きたいのか」という疑問から、その「音」を探しに行くフィールドワーク
(『音の記憶』を探しに行く旅)が創作の基本になっていたのではないか。


次回へつづく!




2001/06/15(金)

希有なできごと。

昨晩、久しぶりにベッドから落ちた。
もう何年もなかったことだよ。びっくりしたあ、もおー。
熱帯夜といったらおおげさすぎるかも知れないが、いや、実際暑かったのだな。
窓は全開、でも蒸し暑くて無意識にベッドの上をごろごろ転がっていたら、
どさっと落ちて、でもまたベッドによじ上がるのがめんどっくさくって、
そのまま明け方、冷たくなるまでカーペットの上で倒れたままだった。
朝早く、目が覚めると目の前のゆかに本が落ちていたので、そのままそれを
読み始めたら、また知らないうちに気を失っていた。
ベッドから落ちたのなんて、10年ぶりくらいだろうか。
赤飯でも炊くか、え?

いらない? 音楽とかと何の関係もなさそうだしな。



2001/06/17()

その本の名は、

先日、ベッドから落ちて明け方目が覚めた時に、目の前に転がっていた本は
「東電OL殺人事件」 佐野眞一/新潮社/ISBN4-10-436901-2 C-0095
でした。ではおやすみなさい。人類のみんな。

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

いや別に、人類のみんなに限ったわけじゃないけどよ。
他のみなさんも。宇宙の方々。




2001/06/18(月)

音の記憶/サウンドスケープ   -2-

60〜70年代、東京の実家にあった録音機器というと、1/2インチ オープンリールの
SONY製モノラルレコーダー、それから小さなカセットレコーダーだ。
今のタクロク(自宅録音) の状況と一番違う点は、まずノイズに対するコンセプトだ。
今、21世紀になって気づく事だが、あの頃ノイズは録音の一部として同居していた。


まず、REC ボタンを押す「カッシャ」という音、そしてストップボタンを押した指が
ボタンに触れる音から録音ヘッドがテープから離れる暴力的なメカの音にかけて、
全ては録音行為という一連のプロセスが、1パッケージの「タクロク」という
コンセプトとして認識されていたと思う。
もちろん、外部マイクを使わなかった場合(内蔵マイクによる録音)、REC 中のテープ走行の
モーター音も含んで「タクロク」のコンセプトは存在していたのだ。
(その頃は、LINE録りなど思いつきもしなかった。)

元はといえば、小学生の俺が友人とラジオドラマのような即興劇をカセットに録音
し始めたのがきっかけなのだろうが、中学〜高校の頃、消去ヘッドに紙をセロハンテープ
で挟み込み、超原始的な多重録音を可能にした時が、俺の中の "音フェチ" の萌芽であった
のだろうな、たぶん。

実はこの原始的な「多重録音」の行為そのものが、その原始性ゆえ「楽器演奏」のような
ある種パフォーマンスになっている事にも気づいた俺は、シンセサイザー等、キーボード類は
持っていながら、その原始的「タクロク」の状況をも楽しんで甘受していた気がする。 
(あるいは、高価な機材を買えない貧乏な境遇を楽しんでいたのか? まさか。)

例えばこの状況で音を重ねて録っていくと、最初に録音した音が4〜5回目には、
遠い彼方にわずかに聞こえる音になってしまっている。
そこで最初に録った音を次に更に重ねて録音するとあら不思議、一回目のフィルターがかった
遠くに聞こえた音が、いい具合にリバーブ/残響効果となって不思議な輪郭を持つ音になっている。
シンセサイザーで苦労して創ったストリングスの音などは、大編成の大交響楽団に変身ー 。


こういった事が数えきれない程ありながらも、俺がマルチトラックレコーダー(MTR) を
実際に買ったのは、その後10年以上も経った90年代初頭の NY 、パルミエリのバンドを辞めて
フリーになった頃だった。
もちろん、その間ずーっと例の原始的多重録音を続けていたわけではないのだ、念のため。



2001/06/20(水)

音の記憶/サウンドスケープ    ー3ー

保育園の頃、俺は母に連れられてバス通学だったのだが、まず手始めに
それが俺のメカへの関心の始まりであろう。
あの鉄棒で囲まれた運転台の魅力的なことといったら. . . .!
ちょうど時を同じくして、テレビで放映中の「ウルトラセブン」で、隊員達の
操縦するウルトラホークの操縦席と、毎朝乗るバスの運転席とのイメージが
自分の中で完全に重なっていたのは間違いない。
俺は、毎朝必ず一番前の座席に座って、じいっと運転手の一挙手一投足を注視していた。
じい〜っと、じい〜〜っと点線がてんてんつくほど眺めておったんじゃ。

そして音の記憶。あの魅惑的なエアブレーキの「ぷっしゅっしゅううう〜. . . . 」つう音。
雨の日、ワイパーが窓ガラスに擦れるあの官能的で液体的な音。たまらんねえ。

この頃の俺は、エンジンの音だけでバスの型がいすず系か日野系か等、正確に言い当てて
いたばかりでなく、乗るか乗らないかまで決める程、好みがややこしく
なってしまっていたのだ。へんなやつ。へんたいじゃねえの。

嗚呼、こうなったら恥ずかしさを捨て、全てをここに吐露しやうではないか読者諸君!!
私は、1970年からバイオリン通学に中央線を使って武蔵小金井から吉祥寺まで通って
いたのだが、その間の線路の音といったら. . . . . 。
ちゃうど、駅と駅の中間地点での快適でステディーな GROOVE に加え、駅が近くなってくると、
線路がふっくざつに枝別れしたりするもんだから、それまでの「たたんたたん」な GROOVE が
いきなり「がたがたんがたがたたたたんがたたんたたん. . . . .」 なんて具合にポリリズミックな
変拍子の応酬となり、これを暗記して口で言えるようになるにはもう少し時間が、なんて
小さなバイオリン片手にぼんやり瞑想していたのはそう、まぎれもないわたしじゃないか。

いや、これはほんとの話しなんだ。例えば東中野から新宿に入るあたりの中央線、総武線の
からみあうポリリズムのインタープレーときたら、もう、パルミエリのバンドのリズムセクション
にも張り合うような、COSMIC で壮絶なリズムの応酬で真剣にアナライズしたら、昇天すること
間違いないんじゃないの。
(線路の音でいうなら高校の頃、地下鉄の音を車内から録音して、それをベースのリズムトラック
にしてその区間の曲を創ろうとしたこともあったなー。実は多くの人が試みたはずだけれど。)


ううむ、恐るべし音の記憶. . . . . 。 寄せてはかえし、寄せてはかえし。

今夜もまた、眠れぬ夜との闘いとなるや。 あとあーっ。だあーっ。すちぇえ〜っ。




2001/06/21(木)

去年のきょう。

ぼんやりと去年の手帳を眺めてたら、ちょうど去年の今日、
横須賀で海軍カレーを食ったことになってるなぜだか。 ーあそうだ。
海軍カレーを食いに、横須賀まで行ったんだった . . . . . 。
うーむ、あれから一年、日本かえってないなー。
どれどれ、手帳によるとその翌々日に、俺は世田谷線に乗って小雨の降る若林で
電車を降りて、定食屋で食った生姜焼き定食にあたって大下痢、と。
そう書いてある手帳には。ふうーん。

あそうだ、大変だったんだ、思い出した。
ひと駅歩いてがまんできずに駅前のスーパーのトイレを青い顔して貸してもらったんだ。

あれから一年かあ。 ほおー。




2001/06/25(月)

うーーーーん。 . . . . . . . . . はあー。

非常に残念ながら都合により、今回の帰国ライブは秋へと延期させて
いただきましたです。楽しみにされていた方々、すみませんです。

吉祥寺サムタイムの宇根さんにも迷惑をかけてしまったが、この秋に
雪辱戦ということで、どうだろうかね。

というわけで、わたくし本人もちょっと落ち込み気味ではあるが。
またがんばろう、明日のためにも! 



2001/07/06(金)

かあーんばあーっくっ

7月2日頃から、故あってサーバーがダウンしてましたですね。
心配しましたけど、復旧したわけですね。御心配かけましたえ。

めでたしめでたし。



久しぶりに書き込むので、ちょっと心の整理して。
とりあえず寝て、今後の事は考えようね。♪♪♪



2001/07/09(月)

日曜の午後

中庭をはさんで向いのアパートの窓は、ちょうど台所。
あまーい菓子パンだかケーキだかを焼いている、いいにおいが
ほおんのりしてきてますよ。わざとかな。
うちわでパタパタ扇いでるんじゃないのかあ、え?わざと。

嫌がらせかな。まったくもー。
これはですね、酒のにおいもしてきてますからね。ブランデーかラムか、....
何かリキュール系を使ったパウンドケーキ関連であろうと思われる。


ぐー。ぐっぐっぐっぐーーー。

嗚呼、いひにほい、紅茶でも入れようかねえ。甘いケーキのかほりに午後のティー。
いかすじゃん。結構お洒落じゃああん。




2001/07/15()

耳鳴りがしない! 

仕事がらみもあったのだが、昨晩ウルトラ久しぶりにクラブへ行った。
east 13st にある SPA という CLUB 。なかなか内装はかっこいい。
もともと、ここは system というの名前のクラブだったのだが、オーナーが
代わったのか、この名前で流行っている事を最近知った。
以前は、ラウンジ全体に真っ白なカーテンみたいのが所狭しとぶらさがっていたりして
ちょっとヨーロピアンな風だったのが、SPA はもっとブラックっぽいというか、
テクノっぽい感じの部屋もあって、かっこいいのにいまいち統一感に欠ける気がした。

で、久しぶりだから靴がすり減るまで踊りまくったかというと、全然そうじゃなく、
フロアは人がいっぱいで、ぶつかりまくってダンスできないって感じでしたね。
あと、店の方針なのかも知れないけれど、音が小さい!!
爆音とまでは言わないが、踊っている身体に響きまくる程の音量はほしいと思った。
これを書いている今、ここ数日続いていた耳鳴りが、昨晩以来、ぱたっと音をたてて
止まってしまった。どうしたというのだろう。
心配だ。

客層も安全そうな人たちばかりだし、まあ全てにおいてリラックスして遊べるラウンジ、
という感じなのかな。受けはいいんだろうけど.....俺はちょっと不満だ。
あの翌日まで残る程の耳鳴りが、ちょっと懐かしいよ。
Avenue B だったかにあった ROBOT が名前を変えて復活(?)したらしい。今度行こうっと。



2001/07/17(火)

写真館アップしました!!よろしく。

みなみなさま、お疲れさんでござんす。

この度、History ページの中に新たに Photo Gallery をオープンしました。
とりあえずは、過去の生態記録ということで、1歳半の時に始まり、その後いきなり
20代へと飛ぶのだが、以後最近までのでアップできそうな写真を集めてみました。
御観覧あれ。

今回画像スキャンを担当してくれた Joey さんへ、謝謝。謝謝。我思感謝万歳人生七色
そしていつもお世話になっています、このページの管理人で大家さんのりえ女史へ、
それから関係各位のみなさん、ありがとーうござーいまーす。




2001/07/21()

御回答。

もし、俺の人生で見てきた全ての事が、そしてこれから見るだろう全ての事が
夢である、と仮定すると、俺が「夢を見ている」という現実は、俺にしか分からない。
あるいは、俺が見ている夢は、俺が自分の人生で唯一理解できる事実かも知れない。

となると、俺の周りにある全ての現象やひとたちは、俺の中だけにしか存在しないのか。
一体どおなってるんだ?
でも、たとえ俺がこの地球上のどこにいようと、自分の見てきた事は自分だけにしか
分からないし、自分の記憶にしか残らない。
他者が語る他者の記憶や事実は、俺の中ではひとつの答えだ。答えは作られたのではなく、
答えはいつもそこにあるのだ。何故なら、自分の中での他者の存在は、自分だけの体験だから。


この世のものごとには、いつもその全てに答えが用意されている。それらは全部、自分の答え。
しかも、誰も質問もしてないのに、答えはそこにひとりでじっとしていたりする。
葉っぱの下とか冷蔵庫の裏側とかじゃなくてね。


心が答えの邪魔をすることもあるな。でも結局、答えのある自分の中へ戻るしかない。
自分が論理的であろうとすればする程、詳細に、細部にわたって答えを『説明』する
ことはできる。いつまででも、飽きるまで、自分の能力が続くかぎり。

でも、もともと自分の中にあった答えだ。それを説明しようとすればする程、
実体は遠くへ遠くへと、離れていってしまう。
一言で言い切れる答えには、だから本当は想像力と創造力が必要なんではないかね。

『人間は、考えることが少ないほど余計に喋る。』とは、よく言ったものだ。 






うーむ。




2001/07/27(金)

ついに最終回!










                でしたとさ。







感想文: ふーん。



2001/07/28()

音の記憶/サウンドスケープ     ー4ー

小学校時代の、友人との録音ごっこで使い始めたカセットレコーダーは、その後
テレビの音を録音することから、映画音楽への興味開眼、とつながっていく。
そしてこの頃ようやく、俺は LINE 録りという新しい技を覚えるのだ。

テレビの音を録音して聞くと、セリフの合間の自然音や人の歩く音など、
見ている時には気にもしなかった音が突然、情報の全てとなって
主張してくる。それを、夜、寝る時にイヤホンを耳にさして聞きながら、
ぼんやりいろんな事を考えていると、ある時ふと、一体なんの音だったのか全く
思い出せない、説明のつかない音が存在し始めていることに気づく。
それらは、何年か経ってテレビで再放送した時に改めて映像と共に確認すると、
「え”ーっ」と驚くような単純なシーンに使われていた音だったりするのだ。
そしてそれらが、その頃の洋画にやたらと多い事にある時気づいた。
つまり自然音の録り方/コンセプトが、洋画と邦画ではまるで違うのかも、という可能性。
シーンの対象となる自然音への感じ方/距離感の違いだろうか?
古い日本映画の場合、視点/キャメラの位置から、その対象物までの距離感が音声に
正確に表れているケースが多く、それがとてつもないリアリズムを生み出して
いたような気がする。

ところが、特にその頃テレビで放映していた洋画での自然音は、例えばそれぞれの音は
あまりにも鮮明でミクロ的でありながら、そのシーンにおける主体との距離感が
あまりにも近く聞こえるために、本来マクロに捉えるはずの全体の音のバランス/
ミックスの関係性が壊れてしまって、作家の音に対する感覚に、ある種崩壊した
フェティシズムの影を感じ取れる事さえある。
もちろん、それらが故意的に為され、作品において意味を持つのであれば、
それは仕方のない事であろう。

もっとも、最近のハリウッド映画など、デジタル録音やミックス/編集が当たり前に
なってきている状況においては、スタジオ内での作業にものすごい手間ひまをかけていて、
機材自体の進歩が、人の感覚の可能性を無限大に引き出すトリガーとなっている気もする。

しかし、デジタル機材など想像もしなかった時代には、機材の劣勢が人の感覚/感情の
妨げになったわけでは決してなく、逆に「ない」ことが更にそのシーンを作家のミクロな、
あるいはマクロな創造性に、積極的に働きかけた、ともいえるだろう。
これはどのジャンルにもいえることだけれど。
ミケランジェロやダヴィンチが CG を持っていたら、なんて考えただけでもぞっとするしよ。

ところで俺の興味は、そんなこんなでミクロな、近視眼的なところに始まっていったのだった。



2001/07/30(月)

私に魅惑のライブを。

階段を降りたところにある入り口で、チャージを払って暗い店内を覗くと、
奥のステージ近くにある客席で他のミュージシャンたちと
談話している俺がいます。「ありゃ?」
これはへんだぞ、やりなおし。俺は階段を上っていきます。


        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


セッティングも既に済んで簡単なサウンドチェックのあと、セット前のひとときを
俺は他のミュージシャンたちと、客席のテーブルで談話などしています。
ぞろぞろと、お客が入り口でチャージを払って入ってくるのをちらと眺めながら、
「今日は多いねー」とか話していると、「ややや。」
他のお客に混じって俺がひとりで入ってくる。
なんで俺の LIVE に俺が見に来んだよ。
目を合わせないように他の方を向いていると、近づいてくるじゃん。
「お。」? お、じゃねえよ俺だ。何やってんだよ、俺じゃん。おいおいおい。

混乱するなあ。もー。目が覚めても解せない夢だったよ。



2001/08/05()

たね。

エジプト、アラビア、または中東に起源を持つ、などといわれるバイオリンの祖先は、
何世紀にも渡って、西洋音楽の最も進化したジャンルのひとつである、「クラシック」
に使われる楽器の代表として、奏法/デザイン共に進化淘汰されてきた。

日本でバイオリンを習う、といえば即座にクラシックの奏法を基本とした技術を
学ぶ、ということに他ならない。これがとにかく入り口だ。
俺もそれに習って例外ではない。 とっころがだ。

1975年、バイオリンのレッスンをはじめて5年経ったある日のこと。
朝からさんさんと晴れ渡ったあの日曜日、午前中は「兼高かおるの世界の旅」やら
興味深いテレビ番組がめじろ押しだったが、それのハイライトを飾るのが、
今は亡き黛敏郎氏の司会による「題名のない音楽会」だった。
父の「新聞に、This is Violin って書いてある」という発言で、当時パガニーニファン
であった6年生の俺はただちに録音準備にかかり、おもしろい企画の多かったその番組の
開始に胸を膨らませた。

玉木宏樹、と名乗る黒いサングラスの青年の弾く電気バイオリン。
ワウを使っての義太夫の演奏(朗読?)やら、シンセサイザーを取り入れたバンド
をバックに聞いた事もないフレージング(!)。
バイオリンであんなことしていいのですかおとーさん、と俺がいったかどうかは
記憶にないが、今思い出すに、明らかにその時の俺は混乱していたはずだ。
だってさ、クラシック以外にバイオリンの演奏なんて聞いた事、なーいもん。
更に番組の中で玉木、黛の両氏が言っていたように、演奏法というものは、そのスタイルに
合ってさえいればひとつに制限されるものではない、ということに俺が本当の意味で
気づいたのは、もっと後のことだった。

記憶とはおっそろしいもんだがよ。その後、中学に入りプログレの洗礼を受け、
エレクトリックバイオリンに遭遇する度に「玉木って人知ってる?」と友人たちに
聞いていた事を思い出す。その頃の俺には、玉木氏のエレクトリックバイオリンの
使い方がとても強烈な印象で、エディジョブソンなど数少ない例外を別にして、
ほとんどのクラシック以外のバイオリニストの演奏は「クラシックを基本とした演奏法
に則っていない」という理由で、俺には聴くに値しなかった。(もちろんこの考え方は、
渡米17年に及びこっぱみじんに崩れ去るのだが。)

さて時は過ぎ、21世紀の未来はすぐそこーの頃、ある日俺は思い立ってインターネットで
「玉木宏樹」を検索した。すると出てきたのですね、氏が 。(もう黒メガネの青年ではないよお。)
今は、JASRAC の評議員ですって。もちろん、音楽創作、演奏にも大活躍なさっています。
(玉木宏樹ホームページ / www.midipal.com/~archi/ )

おまけに、氏の音楽的興味には共感を覚えるものがあって、俺はこっそり驚いていたのだ。
国鉄 JR の駅の音に関する考察やら。もうこっそりではなくなったがね。


さて実はその当時のカセットテープ SONY LN C-60 が今、NY の俺の手許にある。
数年前に帰国した際、実家で見つけて持ってきたのだ。
「アナログ音源再生計画」www6.shizuokanet.ne.jp/wbf/ongen/ でも見て大事に保存しよっと。



2001/08/06(月)

合掌

日本時間で午前8時15分は、NY では前日の午後7時15分です。
1時間前まで気にしていたのに、その瞬間は知らぬ間にやり過ごして
しまった。胸が痛む。

こんな本があります。ずいぶん前に読んだのだけれど、再読した。


『幻の声  NHK広島 8月6日』 白井久夫著  岩波新書236 ISBN4-00-430236-6


それぞれ個人にとっての「真実」の大切さを俺は感じたが。
" History is his story " と言っていたのは確かサン・ラ だったか。




2001/08/10(金)

猛暑っ

信じられないっ。NY ってこんなに熱かったっけか。暑いなんてもんじゃ、ないさー。
正に「熱い」のだ。気が遠くなる程。

昨日に続いて、今日は最高気温が華氏103度とニュースで言っていたから、
摂氏でいえば38℃くらいじゃん。
外を歩いていて、自分の吐く息より気温の方が高いから、口の中がずーっと
涼しかった。これは異常です。

で、俺ぐったりしています。


あそうだ。リンク集が大幅にパワーアーップ、しています。みなさん見てみてね。



2001/08/14(火)

『雨降って地固まる』

   //////////////////////////////////

山椒の木い! 今、大雨であります。ざんざん、ざんざん。ざんざん、ざんざん。
窓に打ちつける様に、というか窓にバケツの水をぶっかける様に、外が見えないくらい。

おまけに風まででてきたから、雨が窓に叩き付けられるたびに、
ぼおおっていう窓の軋む音と共に、何故かレンガ造りのこのアパートが、
ミシミシッと泣きます。おお、かわいさうに。おお、こわ。

この音聞いているとなぜだか眠くなる。リパティのショパンでも聴こうかな。


あれ。




やんじゃったよ。


        * * * * * * * * * * * * *


ひとがまじめにはなしているのに、「とど」とはなにごとか。
一生懸命いろいろ書いて、その最後に「とど」。
なんなんだ、TODO って一体、もう。もーは、「うし」。うっしっし. . . . 。



2001/08/22(水)

あなたにできる事

誰もあなたには絶対かなわない。あなたが「あなた」であるという事に関しては。
かなうわけがないのだ、だって例えば俺は決してあなたになれないもの。

この世で確かな事のひとつ、それは俺が「おれ」でしかない事。
朝起きたら、俺が誰か他人の人生に乗り換えていた、なんて事で俺が驚いた日はまだない。

ハイウェイを運転していたら、お日さまがあまりに眩しくて、前の車の窓やらバンパーに
反射してたまらない。休憩所に入ってサングラスを買う事にする。
かっこいいのがたくさんあって決まらないから、誰かにどれが似合っているか聞いてみる。
いろんな答え方があって、それが楽しくて、生きててよかったと思う。
それらは全部、人生の答えです。俺の側から見た、俺の人生についてきた物たち。


B.B KING は、ALLAN HOLDSWORTH より速くギターが弾けない事で悲しんだ事が
あるだろうか。 GEORGE ADAMS は、MICAHEL BRECKER よりメカニカルなソロが
取れない事で悲しんだ事があるだろうか。

たとえあったにしても、 他人にはできなくて自分にしか決してできない事。
それが、自分が自分であって、自分にできることを大切にすることじゃないだろかね。

みんな、この世でできない事、やらない事は山程あるけれど、BRIAN ENO や菊地雅章や
誰であれ、 すばらしいアーティストに皆共通していることは、自分にできる事、自分が一体
何をやるか、を大事にしているという点であろう。

ちょっと話しを飛ばしすぎたか。



2001/08/29(水)

間違いようの無い神の囁き

目の前に大きな大きな、かめがある。
かめには、底まで透き通るくらいきれいな、冷たい水が満たされていて、
俺はその前に立っている。

静かに右の手の平を沈めてゆくと、小さな波紋が、幾重にも柔らかい波を
生んで広がってゆく。
その液体の小さな波達が、不思議な、聞いたこともない音の調べを生んだ。

おおお。すごいじゃん。
今度は人さし指だけ突き出して、少しだけ、波紋をなぞるように、
水をかき回してみる。
うおおおおお、すんごいじゃあん。俺、天才じゃあん。

軽快に回り始めた、音の粒は重なりあって、間違った事など過去に無いかのように
和音を生み出し、それは旋律のようでもあり、自信を持った偶然の音の重なりのようにも
聞こえ、あたかも自分が神の力を得たような錯覚を起こす。

つまり、俺はついに神の力を得たか?

バイオリンでソロを弾く必要は、もう、無いのか?
複雑なコード進行の上での、粋な即興演奏に頭を悩ますことも、無いのか?
しかし、こんなに快い音の静寂は、何にも代えがたいじゃないか。
俺が「こう」するだけで、こんなにも音の流れは自然で、
「こおーんな」ことするだけで、まるでその旋律は神の囁きー
更にもっともおっと「こんなこんなこんな(バシャバシャ.... )」ことしちゃうと


ほおーら。神に間違いは無いのだ。そうなのだ。



2001/09/02()

Ray Barretto と共演

先日の夜、ソーホーにある KAVEHAZ というクラブへ楽器を持っていった。
実は先々週、友人で RAY VEGA というトランペット奏者の LATIN JAZZ バンドが
出ているということで見に行ったら、なかなかハプニングしているバンドなんで、
一昨晩は、楽器持って遊びに行ったのだ。
そしたらなんと。RAY BARRETTO と EDY MARTINEZ が客で見に来ていたのだが、
結局みんなで一緒にやることになってしまったのだ。

いやいや、たのしいたのしい。あんまり楽しかったので面子を書いとくね。
Ray Vega (Tp) わたし(EL.Violin) Edy Martinez (P) BORIS なんとか(Bass)
Ray Barretto(Congas) Willie Martinez(Drums)
(すみませんね、BORIS さんは、モスクワ出身のすんごくいいベース奏者。先日、日本で
 David Kikoski (P) の録音に Jeff Watts (Drs) 等と参加したとの情報あり。)

曲は FOOTPRINTS 、超シンプルな 6/8 マイナーブルースだけれども、曲がシンプルな分、
みんな飛んでく飛んでく。レイバレット氏も、飛び入りとはいえ真剣に演っていました。
俺はミキサー卓にそのままぶち込んだだけなので、音はクラブのモニターからのみ、という
辛い状況だったけれど、ま、エレクトリック楽器の運命だな。Sit In とはこんなもんよ。
じゃなかったら、アコースティック持っていってマイクの前にへばりついているか。
どっちでもいいけどね。状況に応じて柔軟にな。卓があるだけでもラッキーか。


というわけで、Cuba な GROOVE でぐるぐる回って血の騒ぐ、満月まではあと何日なのさ。




2001/09/03(月)

増村保造!!

決して日本での『増村保造レトロスペクティヴ』等の片棒をかつごう、というのではない。
でも NY で何本か見る機会があって、正直言って驚いた。というか、大発見っていったら
ばかにされるか。まるで、つい昨日撮られた映画、といわれても信じてしまう程の存在感、
そして、リアリティー。おもしろすぎる。

例えばアメリカに17年以上いる俺が、日本に対する郷愁でもって、小津や溝口の日本的な
映像美にあこがれを感じるのとは明らかに別種の、現実的な郷愁(?)あるいは既視感のような
不思議な気分を味わった。

戦後日本の、日本的なる物の中に、あたかも本来あったかのように入り込んでゆく西洋的な
価値観の見事な分裂、そして融合の過程。
あるいは、長い間日本に住んでいた西洋人が、ついに日本に帰化すると覚悟を決めて、
二極化された因習から解き放された悲愴感をも漂わせた希望!!ってなんなんだいったい。
何いってんだ俺は。

日本映画って、こんなにこんなに、おもしろかったんだ。幸せだ。
つくづく俺は感心したよ。これから増村保造作品にはまっていくんだろうな。
全作品見終わるまで続くんだろうな。癖になりそうだ。


 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ところで、最近リンク集に更なる追加をしました。



2001/09/13(木)

なんてこった。

いま、あまり多くを語る気になれないが。
一日以上たった現在、マンハッタン中、すすの臭いというか、焼け焦げた臭いでいっぱいです。
現場から地下鉄で30分程離れたこの部屋の中も焦げ臭い、火事のあとの様な臭いが充満しています。

ニューヨークの某ネットワーク系ケーブル局は朝から、心理学者や精神科医をゲストに呼んで、
テレビを見てショックを受ける子供を含めた人達への「心のケア」についての特集を組んだり、


救出に出かけた消防士たちは、マンハッタンだけで約200人が現場で命を落としたとか。
さっき家に帰る途中に見かけたのだけれど、近所の消防署でろうそくを道に何十本も立てて、
消防士たちや、通りがかりの人達が祈りを捧げていた。

近所のイラン人が経営している小さなコンビニでは、深夜、近所の若いもんが「わけもわからず」
次から次へと店主にからんで困らせようとしていた。が、店主は慣れたもんで笑って相手にしていなかった。

マンハッタンの人達はひとつになろうとしているようでもあり、分裂しているようでもある。

あーくさい。部屋んなかでたき火してるみたいだ。なんだか頭がいたいな。



2001/09/15()

すごい!

街中、ろうそくだらけ。まるでマンハッタンにクリスマスがきたみたいだ。
今晩、7時PM から、ろうそくを持って被害者の追悼を行うっていう話しが
あって、夕方を過ぎた頃から、ほとんど街角という街角にろうそくを持った人達が、
何千人と集まってきて、ただじっとしている。
街がきらきら輝いて、すんごいきれいだよ。
一見、この事態に対して生産的だとは思えないこの行動が、なんだか街全体をひとつの
有機的なアートにしているようだ。これはある種の反動なのかな。
花が、咲いているだけできれいなのと同じように、とても自然な気もする。

一方で、昼間は「何かしたくてたまらない」あらゆる人達が、ありとあらゆる物、
自分で作ったサンドイッチから、衣服、飲料水、シャベルなどなどを持って集まってき たり。
結局、一般の市民はそれぞれ自分にできることを自分なりに見つけだして、単に
それを実行している、てことか。(俺は追悼の演奏をする?)


ここのところ毎日、悲惨な映像ばかり見ていたので、なんだかこういう光景はものすご くほっとする。



2001/10/03(水)

もう10月?

いやあ、もう10月か。早いもんだのお。
一昨日、アパートのスチームが入った。
なんだか寒い夜だなーと思ってわくわくしてたら案の定、かたんかたん、
という音と共にスチームヒーターが熱くなって、いよいよ冬支度というわけかー。
と思ったら、今日は 20度超す陽気だし。これがインディアンサマーだっけ?

相変わらず NY のテレビは全てテロ事件関連がトップニュースで、未だに
現場には5000人を超す人々が瓦礫の下に埋もれたまま、とは.....。

ああくるしい。


実は、ヒスパニック系が多く住むうちの近所には、 事件のあった日とその翌日以降は、
「普段どおり」メレンゲやサルサが交互に鳴り響いていて、複雑な気分だったのだけれど
「追悼演奏とかはどおなの」といろんな人に言われていた俺としては、
そういう事も、ミュージシャンとして何ができるのかな、と考えていただけに、
窓の外に陽気に鳴り響くラテンの音の嵐は、追悼演奏とかって一体どういう事かね、
と俺の中での混乱に拍車をかけていたのだ。

なぜって、サルサの明るい音は、何よりも表現者である俺を和ませてくれたから!
不謹慎な言い方を許してもらうならば、まるで事件でショックを受けていた俺の心は
近所の道端で、パラソルならべてサルサを聞いてわあわあ言ってる彼らに
「追悼」してもらったような気もするんだよ。

実は俺、部屋の中で、窓の外でがなりたててるサルサに合わせて演奏した時が、
あの日以来、一番自分の心の欲求に正直な、演奏ができたと思ったのだ。


弾くなら明るい音がいい。
追悼で、心のリアクションを描写するような暗ーいレクイエムみたいのは、
いまは救われない気がする。

暗い音が好きな俺は、いまはそれは心のシミュレーションだけでいいや。
正直にいって、何か明るい、輝くような音がほしいな。



2001/10/13()

A Mighty Crime, Many Justices

世界中のみんなが助からないんなら、意味がない。

犠牲者からは、敵味方の区別なく、憎しみしか生まれない。
憎しみから生まれる復讐心を正当化するために、反撃に出たら、
力が強い方、あるいは狡猾な方が、相手に新たな被害を与えて
また別の新たな憎しみを生むだけだ。

武器の力は平和という解決を生まない。
あるいは、片寄った不公平の軍事バランスからも、
公平な平和は生まない。  
相手を上回る力でねじ伏せても、人々の心は負かせない。
世の中は軍縮に向かっていたのに、軍需産業は盛んになる。

正義ってなんだろうか?
この世で「人間が正義を語る」事が間違いなのかな?
この世でたったひとつの正義なんてないって仮定するなら、
例えば、頭や力やその他いろいろ弱い者が、救いのない状況で
自分の身を守るにはどおすりゃいいのか?

相手をぎゃふんと言わせ、ぐーの音も出なくする位の武器を持つか?
あーぶないあぶない。
まーちがって違う人ぶっ殺しちゃったり、弾が当たっちゃったり。

湾岸戦争の時にも痛感したのだけれど、たとえば国連はこういう時
どこよりも、まっ先に何かできないのだろうか。
国際規模の事件を、いち国家が「報復」と称して
制裁してしまっては、問題の解決にはならない。

「テロ」という名のアピールはもうたくさんだ。
「報復」という名のアピールももうたくさんだ。
人が死ぬんなら、もうどっちだって同じだ。
犯罪は犯罪だ。

テロなんか起こさずになんとかならんかね。
ここはひとつ。

全世界が、様々な中東問題や、アラブ/ユダヤ、パレスチナ/イスラエル問題、
難民問題とかに今一度目を向けて、真剣に考えんとね。



2001/10/20()

人類の知恵

深夜、アップタウンへ飛ばすタクシーの窓を全開にして、首を回して後ろを見ると、
いつもいつも見なれた2本のビルの姿が無い。
焼けこげた匂いと共に、冷たい風が、開け放れた窓からぼーぼー入ってくる。
悲しかよ。

どんな時も、道しるべ、あるいはお地蔵様か観音様みたいに、マンハッタンのあらゆる場所から
見上げては、自分の位置を教えて、励ましてくれた双児の彼らは、もういない。
(あれれ。これって偶像崇拝の一種か?)

「みんなうるさいから言いたくないんだけれど」とことわってから
「アフガニスタンから来た」と答えたタクシー運転手のとーさんは、
政治的な会話なんかしたくないからなっと言いながらも、じゃ黙ってる、
と静かにしている日本人の俺に、結局いろいろ話しかけてきた。

家族をアフガン北部に残して来ている彼は、最初の1週間は電話も通じず、
心配で全然寝れなかったんだという。
「だいたい、なんだい今さら。超貧乏な俺の国に勝手にソ連が侵攻して来たり、
援助だとか言って、ソ連もアメリカも武器ばかり置きっぱなしで行っちまうし。
結局、俺の国に残ったのは、悲しみと武器だけなんだよっ。」

「あの男を捕まえようとしても無駄だよ。あの男は、アメリカ軍に捕まるくらいなら
まずまっ先に自らの命を断つから。」
自決覚悟の大事件を起こしたあの若者達の「テロ」という自分の命を賭けた「聖戦」は、
何も彼らのためだけにあるんじゃないよ、と言っているようだった。

広島/長崎が原爆で破壊され18年後に俺は生まれた。
俺がアメリカに来て今年で18年目に入る。



2001/10/25(木)

もうへいき

先週末から数日間、アクセスできなかったね。
すません。もうだいじょうぶです。

今日こそ、インディアンサマーか。日中は摂氏25度以上はあったですよ。
寝不足気味で、まぶたが重いよお。

ぐううーー。るるるるるる。ぐううーー。るるるるるる。



2001/10/28()

地震?! in Manhattan

驚いたー。昨晩1時半過ぎ、突然 " みしいーっ”ぐおおん!という
何か天井が抜けたような音がして、ついにこのぼろアパートも
最期の時が来たか、と思ったら、あとは静まり返ってしーんとしてしまった。

最初、誰か上の階の住人が、何か重いものを床の上に落としたのかと思ったのだけど、
今朝、というか昼頃テレビをつけたら、マグニチュード2.6の地震でした。

いやあ、感じない程度の小さな地震があるのは知っていたけど、
こんなのは長年ここにいて初めてだな。
数秒間くらい、このぼろアパートがブルドーザーでゴゴゴゴゴゴッて
押されていた感じ。

震源地はダウンタウンだとよ。
ほーら、地球をいじめたからバチが当たったっちゃ。言わんこっちゃない。

きっと関係あると思うんだけどなー。



2001/11/09(金)

One Note Samba

ここにご紹介のこのサンバは
ひとつの音だけで出来ています
他の音も入ってはきますが
土台はひとつの音です
こんな結果になったのも
いまお話したとおり
ちょうど私があなたの
逃れられない結果であるように

そこらへんには 何とたくさんの人たちが
おしゃべりばかり 結局は何も言っていない
私は音階をみんな使ってしまい 最後には
何にも残らず 何も聞こえませんでした

そこで私は自分の音符にもどりました
ちょうどあなたのところへ戻ったように
わたしは自分の音符をたよりにしましょう
ぜんぶの音をほしがる人は
レミファソラシド
結局は何にも残りません
ひとつの音だけにこだわりなさい  


作曲/作詞 カルロス・ジョビン/ニュートン・メンドンサ 対訳/高場将美



2001/11/16(金)

できるなら

こんな時に、不謹慎なのかあるいはアンタイムリーなのか、
そして、そんな事考えたくないというのも本音なのだがよ。
12月15日/日本封切り予定の金子修介監督作品...... 。
見たいのお。

わしゃ帰国できるなら見たいんじゃがのお。おうよ。
きっと名作じゃい。
G3 の監督が撮るんだから、間違いなかろう。
猪四郎監督作品を引き継ぐクオリティーの高さ、という点においては
信頼があるんだけれどなあ。

見たいのお。

ところで、ユリアーナ・シャノーさんはどおなったんだろか?



2001/11/28(水)

MILES DAVIS のマスターテープ AT SONY RECORDING STUDIO NY

Luv and Soul の NYミキシング/コーディネーションでトイズファクトリーズ、
マイミュージックの仕事を手伝っていた関係、DMX や Ruff Ryders等で有名な
敏腕エンジニア RICH KELLER の仕事場である SONY RECORDING STUDIO NY に
出入りする機会の多かった去年、関係者以外立ち入り禁止区域である建物の
最上階に陣取っている "CBS COLUMBIA/SONY" の聖域でもある「テープ庫」を、
スタジオマネージャーの計らいで見学させてもらった事がある。

うっふっふっふ. . . . (笑)。
なるほど、宝の山というのは、ああいうのをいうのだとその時、心の底から思わされたものだ。
入室者全員の確認の後、エレベーターのその階へのロックが解除されて入室。
至る所にある監視カメラに睨まれながら、テープ棚をひとつひとつ眺めてゆくその行為が
さながらこの国の POP MUSIC の歴史を見ている様で、改めて鳥肌の立つ思いであった。

サイモン&ガーファンクルのマスターテープやらに始まり、まあ一言でいえば何でもかんでも
(本当になんでも)あった後、いちばん気になっていた MILES DAVIS の棚に辿り着いた時、
俺の胸は、ばっくんばっくんしていて、ほとんど犯罪者の様であった。何もしないけどね。
「KIND OF BLUE」セッションマスターテープ等、いわゆる正規にリリースされたものはともかくよ。
やはりそれは「あった」。あったあったああったよお。俺の心はそう叫んでいた。

それは「MILES' PRIVATE RECORDINGS from home」と書かれた粗雑なプラスチックのミルク箱
で、中には恐らく百本近いカセットテープがごっちゃごちゃになって入っていた。
この中の、知られざるリハーサルやオーディション等の音たちを想像すると、なんだか
主の死後、そのままに葬られてしまった即興芸術の刹那的な運命を感じて、残念な気もするが、
今しばらく化石のまま眠らせておく方が、アーティストにとってはいいのだという思いがした。

まあこの手の話しは、関係者にはどうと言う程の事の無い事実なのだろうが、
いや、やはり驚いたよ。だって例えば、もしかしたら JIMI HENDRIX とのセッションテープも
あるかも知れないのだしね。(無いのかなやっぱそれは。)
あらゆるセッションのマスターテープに囲まれてテープ庫を出た後、
なんだか俺は、タイムマシーンで再び現代に戻って来てしまったような儚さを感じたものだ。

ちなみに、「テープの風通しとかは頻繁に行うのか」という質問に、
「現在ここのオープンリールのアナログ音源は全てデジタル保存化されつつあり、
そのうち風通しなどしなくなるだろう」とのことでした。

ところで話しは変わるが、テープやらの歴史的に貴重な音源というものは、
イスラムでは偶像的な扱いになるのだろうか?
偉大な指導者の詠うコーランの音源とか。
と謎を残して今回は次回へとつづくのであった。



2001/12/02()

まるで春のような。

何故、こんなに暖かいのか。 おかしい。
昨日なんか、20℃もあったのだ。NY でもめずらしい事だ。
これでは、心が春の陽気と勘違いして、うきうきしてしまうではないか。
どおしようどおしよう。
もうすぐクリスマスやらお正月やらがくるといふのに。

と思っていたら、さすがに今日は反省したのか正常にもどって7℃だとさ。
ま、これでも何だか暖かい気がするけれど。
寒くなーれー寒くなーれーもっともっと寒うくなーれえ〜。しししししし(笑)。



2001/12/06(木)

本多猪四郎監督の思い出/一期一会

1988年の夏、エディ・パルミエリのバンドで西海岸へ一ヶ月のツアーに出た俺は、
ツアー終了後、縁あってその時 LA 訪問中であった本多猪四郎監督御夫人のきみ女史と、
友人の T君との三人でハリウッド見学にくり出した。
その頃免許を取ったばかりだった T君の豪快な運転で LA 市内を観光し、愉快に過ごした
その数日間が縁で、その後帰国した俺は、成城にある本多監督のお宅にT君と共に、
夕飯にお呼ばれしたのであった。

わざわざとっていただいたお寿司やら、奥様の手料理などで、それはたいへん豪華な御夕飯
だったのだけれど、その晩初めて(そしてそれが最後になってしまったが)お会いする事のできた
本多監督の人間としてのやさしさ、そしてその心の繊細さに、全く妙な例えだが、
まるで自分に赤ん坊ができた様な深い感動を覚えた。   

詳細は省かせていただくが、その場に本多家と親戚つき合いのように近い関係にあった方の
息子さんがおられたのだが、話題が彼の学校時代の話しになった時、彼の事を本当に
親身になって心配しておられた監督の姿が忘れられない。
何か世の中間違っている、という事に対して、その気持ちを切実なまでに、
そして自然にそれを表す事のできる、恐らく表現者としてではなく、ひとりの人間としての
そのやさしい感情は、その場に居合わせた人達の心に末永く焼き付いてしまう程、強烈だった。

監督や、更にはその晩少し伺う事ができた黒沢明監督との御関係も含め、一般にカリスマのように
崇められてしまっている人達は、その本来の人間としての自然な姿はあまり注目されずに、
そのすばらしい作品によってのみ、近視眼的な評価をされる向きがあるが、作品の個性を
形作っているのは、実はそれに関わった個人ひとりひとりの姿勢と、それらを率いた監督の
素顔であると確信している。
その晩の事は、今でも俺は心に鮮明に思い出す事ができる。
それ程、俺にとっては鮮烈な出会いであった。

ニューヨークでのテロ事件、そしてそれに続く一連の報復、世界各地でのテロなどの模様を
テレビで見ていて、ふと、もし監督がこれを見ていたら、きっと涙を流して悲しまれたに
違いないと思った。

なぜか今、あの時の本多監督の姿をよく思い出す。



2001/12/24(月)

まったく. . . . .

嗚呼、いつの間にか今年も終わりよ。なんてことだい。

ここ最近、地下鉄の中で新聞やら本やらを読んでいる人を、本当によく見かけるようになった。
特に9月12日の地下鉄なんて、新聞読んでいない乗客の方が多いくらいで、
まあ、あの時は深刻な状況だったわけだけれど、それでも NY の地下鉄で、
本やらを読むっていうこと自体が、以前はあまりなかったわけだ。

俺が初めて NY に来た84年頃の地下鉄なんて、窓も車内の蛍光灯も、車内全域が
スプレーの落書きで埋めつくされていて、目に悪いは身の危険は感じるはで、
まず読書どころではなかった。つまり車内は落書きで真っ暗だったんだな。
それがどうだい、最近は車内で居眠りをする人すらいるんだから、この街も変わってきたね。
以前はあーぶなくってそんなことできなかった。
乗客みんなが車内にくまなく気を配って、不審げにお互いを警戒/牽制しあっていたって感じか。

あそれから、今年の NY は例年に比べて全然おしゃれな雰囲気はありませんねえ。
みんな年末に向けて元気なんだけれど、かっこうは「いつでもテロとか緊急事態に対応できる」
って感じの身軽な服装が目立つ気がする。
地面に擦れるくらい長い黒のロングコートとか、見ないなー。それが流行りなのかな。
なんにせよ、自制ムードみたいなのは少なからずある、と。

さて、そんな NY をわたしは後にし、後ろ髪を引かれる思いで、今年の年末年始は
某極東の火山列島で過ごす事にしました。1年半ぶりか. . . . . 。
2週間程の短い滞在になりそうだがぜひ、今回もその活火山/休火山の活動のしるしである、
暑いお湯にだな、入ってきたいもんだねさよ。
そんなわけで、今年もいろいろあったさ。来年もいろいろあるといいな、悪いことはやだけど。
ではみなみなさん、来年もよろしくうー。

(ビクトル・エリセ(VICTOR ERICE) 監督の「ミツバチのささやき(邦題)」を
見た。夢のような話し。あんな映画、日本にはないのかよ。)



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